どんなに思い出そうとしても、次の記憶は自宅だった。
いつもの様に布団で母が寝ている。やっぱり、寝ているだけだと思いたかった。
ずっと世話を焼いてくれていたであろう、竹おじさんが何度も慌しく部屋の出入りを繰り返していた。
いつの間にかに普段着ることのないスーツを着ていた。色は黒。
僕はずっと母さんの横にぼぉーっとただ座っていた。
まるで、僕が階段を上り降りする時のように荒々しい音が響いた。
ガチャリ、と大きな音を立て、めいいっぱいに扉が開いた。
「つくし!」
母さんを下の名前で呼ぶ男の人は初めてだった。
名前を呼びながら飛び込んで来た背の高い男の人は見覚えが合った。
と言ってもTVに映る姿で知っていただけだし、僕の知識じゃ有名な大きな会社の社長ぐらいなものだ。
ただ・・・僕とどこか顔が似ていると思ったことがあった。
スーツを着込んだくるくるとした髪型のその人は、
部屋に入るなり、母さんを抱きしめ『嘘だろ』『起きろよ』と何度も叫び、泣いていた。
「司さん、落ち着きなさい。子供の前です。行動を慎みなさい」
聞こえてきたのは少し威圧的な言い方をする50歳ぐらいの女の人の声だった。
この人もどこか、見覚えがあった。
「お前、名前は?」
「・・・牧野 束(つかね)」
「・・・歳は?」
「もうすぐ10歳・・です」
男の人にがっしりと両腕を掴まれ、真っ直ぐに顔を目を見られている中、
僕は機械のようにただ答えた。
「司さん、それじゃその子が驚くだけでしょう?」
あきれた様な声が、また強めに響いた。
この人たちは何だろうとぼんやり思っていた。
「お電話、ありがとう。大変だったでしょう?」
少し、トーンの和らいだ声と近づいてきた顔とで、はっきりと思い出した。
昔、会った事がある。
そして、僕はこの人たちに電話したんだと知った。
「久し振りね,おばさんのこと覚えている?」
コクンと頷く。本当は、顔を覚えていたわけじゃない。
ただ、『パフェとオバサン』がつながって記憶の片隅に残っていただけだった。
世間では誕生日にはケーキとプレゼントが定番なのだろうけど、
僕の家では、外食に行ってパフェを食べるのがお決まりだった。
たった一度だけだ。誕生日以外でパフェを食べたのは・・・。
僕も母さんも冬場に誕生日を迎えるから、
夏の一番暑い日にクーラーの効いた涼しい店内で食べることが出来たら
どんなに幸せだろうかといつも思っていた。
5・6歳ぐらいの頃だったと思う。
蒸し返すような猛暑の日に、この辺りでは見慣れない、
黒塗りの高そうな車がアパート前に止まっていた事があった。
手を付いて中を覗き込みたかったけれど、
夏場の車体はものすごく熱く、
運転席に座っていた男の人に睨まれたこともあってすごすごと引き下がった。
汗とプール帰りで塩素の匂いの混った濡れたタンクトップに
着古したパンツ、ビーチサンダル。
子供とはいえ、車の持ち主からすれば近寄っては欲しくないだろう。
いつもの様に軽快な音を立てて階段を上り、一気に廊下の端まで走り抜け、
勢いのまま部屋の戸を思いっきり開ける。
ただいま、と大きな声で中に入った瞬間、
目に入って来たのは母ではなくここにいるのが不釣合いなほど、
身なりのいい見知らぬおばさんだった。
挨拶しなさいと、母に急かされ、
さっきよりかなり小さく『こんにちは』と口ごもるように言う。
会釈と『こんにちは』を返してくれたその人は、なんだか怖かった。
母が困ったような顔をしていた。
あの後、なぜか僕はあの高級車に母とおばさんと乗って、
いつもは誕生日にしか行かないレストランに連れて行かれた。
子供にとって『好きなものを食べていい』これは魔法の言葉だと思った。
怖かったおばさんが、その言葉を口にした瞬間、この人はいい人だと思った。
もちろん頼んだのはパフェだ。
運ばれてくると、夢中になってつついた。
横で母が困った顔しながら、その人とずっと話し続けていた。
会話の殆どは聞き取れなかったし、
聞いたところで子供の僕が分かるはずも無かった。
ただ、しきりに頭を下げ、
『ごめんなさい』と『すみません』を母が繰り返し口にしていた。
憶えているのは、それぐらいだ。
母の葬儀などは全部『道明寺』と名乗った二人が取り仕切ったらしい。
母が死んで何日か経ってはいたけれど、実感というものが無くて、
僕は能面を被っているかのように表情を変えることも無く、
泣くことも無く、生気の無い顔をしていたのだと後で聞いた。
母の葬儀が終わって一番問題なのは、僕の処遇だった。
「一緒に来るよな」その問いかけに、
僕はただ一人にならなければ、それでいい。
それだけを思い、ただ頷いていた。
きっと、最後に母が信頼を寄せた相手だったから抵抗無く行けたのだと思う。