One Love





母が死んだ。
それは、十歳を目前にしたに限りなく冬に近い秋で、
僕はただ漠然と独りになってしまった、そのことだけが頭に浮かんだ。
すぐには悲しみなど実感できなかった。
抱えていたサッカーボールの感触だけが今もはっきりと残っている。
 



僕が育ったのは、海の近くの工場地帯でカーンカーンと、工場からの大きな音が響き、
遠くの煙突からは水蒸気がもくもくと上がり続ける片田舎のボロアパートだった。
鉄で出来た階段は塗装も剥げて、雨と潮風に晒されてところどころ腐敗がすすみ、穴が開いていた。
よく、その穴を突いては大きくし、母に怒られていた。
アパートは全部で8部屋。僕らは階段から一番離れた2階の角部屋の4畳2間に住んでいた。
そこは、母よりずっと年を重ねていた為か、薄い壁は隣の声が筒抜けだった。
住人の殆どが外国人で、住人は皆同じ工場で働いていた。
母は近くの工場で昼夜問わず働き、僕を育ててくれた。
仕事が忙しいときは、同じアパートの人にお世話になっていた。
今時、珍しく近所付き合いがしっかりしていて、誰もが顔見知りだった。
預けられる先は日本人だけではない。外国人もいた。
ちょうどいいから教えてもらいなさいと、嫌にスパルタ気味なとこがあった母の一言で、
俺は近所の外国人労働者からいろんな国の言葉を習った。

中国・スペイン・ポルトガル・フランス・英語・・・・忘れてしまったものもあるが、
どれも挨拶程度なら今も話すことができる。
母一人子一人、父親のことはまったく知らなかった。
決して裕福ではなかった。それでも、笑いは絶えず、楽しい生活だったのは憶えている。




10歳の誕生日は僕にとって特別だった。
母と約束をしていたから。父親がどんな人か話してくれると。
その日が待ち遠しくて仕方が無かった。






なんでもない、普通の日だった。
冬がすぐそこに来ていて、早く日が落ちるため明るいうちにと、
学校から急いで帰ってきた。
歩くたびに、ランドセルに付けたサッカーボールが身体に当たり弾んだ。
家の近くに来て、ボールを取り出し蹴りながらいつものように帰っていった。
アパートの入り口に人影を見つけ、母さんかと思い、ボールを抱きしめ走り寄っていった。
逆光で顔の見えなかった人影は、母ではなく近所の小母さんで、僕をなぜか待っていた。






「おかあさんが!!」




今日は早く終わるから、夕方には帰るって行っていた。
一緒に夕飯の買い物行く約束した。
夕食は、コロッケを作ってくれるって。
いつものように笑っていたじゃないか。




ただ、頭が真っ白になった。




交通事故だった。病院に着いたときには手遅れだったそうで、
救急車の中で息を引き取ったと聞いた。
涙は不思議と流れなかった。
病院の安置室で対面した母はまるで眠っているようだった。
見たところ傷なんて無かった。打ち所が悪かったらしい。
ほんの少し肩を揺すって、『母さん、おきて』と声を掛ければ起きてくれるような気がした。
大好きな笑顔で笑ってくれると思っていた。
周りの人が皆、泣いている。
一人残された僕のことを心配している声が聞こえる。
落としたサッカーボールがポーンッポーンッ・・・と弾み響いてゆく。
すすり泣く声が重なる。母さんは動かない。本当に母さんは死んでしまった。
それで現実だと悟った。






『母さんに何かあったら、ここに電話しなさい』
『あなたを助けてくれるから・・・』






何時だったか、母さんに言われた言葉が頭に過ぎる。必死だった。
枕元に置いてあった母さんのバックをひったくる様に掴むとそのまま逆さにして中身を出した。
周りの目など気にしていられなかった。
大して中身は入ってはいない。目的の物はすぐ見つかった。
それは、いつも持ち歩いていたジュエリーケース。
土星をかたどったネックレスを置く土台の下に小さく折られたメモ紙が忍ばせてあり、
11桁の番号が名前も無く書いてあった。

電話しなきゃいけない。この番号で繋がる人に知らせなくてはいけない。
それだけでいっぱいになった。
「竹おじさん、携帯貸して!!」
振り返って最初に目に入った母さんの仕事先の上司であり、
休みの日によく遊んでくれた竹おじさんにしがみ付き、拝み倒すように様に頼んだ。
あっけに取られ、「ああ」ともたつく様にポケットから出した携帯を奪い取り部屋から飛び出す。
暗い廊下が、小さなボタンが、震える手が、全てがもどかしかった。


この先は、誰と繋がっているのであろう?
ワンコール、ツーコール・・・・無機質な機械音が続く。
早く出てと、焦る気持ちが手のひらを汗ばらせ、
しっかり握り締めたはずの携電帯話が落ちそうになる。
どれくらい経っただろう?
もう、繋がることは無いんじゃないかと思えた頃だったと思う。
プッと明らかに今までとは音が変わって人の声が聞こえてくる。
「もしもし・・・」その後は、まったく覚えていない。










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